久方の光のどけき春の日に

目指せ人生の伏線回収

RAINBOW CROSSING TOKYO 2018に行ってきた感想

趣味の話でもして楽しい少数者感を出そうと思ってブログを立ち上げたのに本題になかなか入れない……ごめんなさい……

みなさん通勤通学時間はドアツードアで1時間くらいにしておきましょう。さもなくば余裕がなくて死ぬぞ。(私はこれ以上忙しくなったらどうなるんだ……)

 

RAINBOW CROSSING TOKYO 2018に一般参加してきた話

さてこの記事の本題、「意識の低い性的マイノリティ、社会を変えるために動いている人々の集いに出てみるの巻」です。

去る10月21日(日)、東京大学にて開催されたRAINBOW CROSSING TOKYO 2018に参加してきました。

こちらは認定NPO法人Rebitさんが主催している、LGBTとキャリアや働き方について考えるイベントです。具体的には、実際に取り組みをしている企業が自社の活動を紹介したり、当事者が自分の経験を話したり等々。

RAINBOW CROSSING TOKYO 2018

申し遅れましたが私はまだ学生をやっておりまして、これから働くにあたって人生の先輩たちは何に困ってそれにどのように取り組んでいるのかが知りたくて参加しました。

だってほら今まで特に困ったことなかったから……先人の経験を知って知識として備えようかなと思いまして……

公認された取材なども限定されており、一個人がどこまでワールドワイドウェブに載せてよいのか基準ラインが分からないので、具体的なことをぼかしますがご容赦ください。私の感想を中心に記事を書きます。

認められた取材記事等はこちらにありますので雰囲気などはリンク先をご覧ください。

https://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye3503405.html

LGBTの4割が就活時にハラスメントを経験。約半数がセクシュアリティを「伝えたくない」と回答、その理由は。 |

(これをご覧になった関係者の方、この記事がアウトでしたら削除致しますのでご連絡下さい)

 

  

全体の感想

終わって持った感想としては2点。1. 私の感覚はあまり多くの人が持っているものではない、ということと、2. LGBとTを一緒くたにするのはやっぱりそこそこ無理がある、ということでした。

1. 自分の感覚が多数派ではないという気づき:セクシュアルマイノリティは「マイノリティであることがつらい」という感覚、経験をベースとした連帯の色が強い

私は一応いわゆる当事者*1なので当事者のことをまず考えてしまうため、そこから書きます。

恐らく思春期に自分が人と違うということを自覚して不安になったり悩んだり自己嫌悪になった人は、そういう苦しかった経験があるからこそそれをバネにして自分の居場所を探したり創り出したりするのだと思います。そんな人々が行動した結果が、主催であるRebitさんの存在であったり、現在の世間における「LGBT」という語の浸透具合であったりに現れているのだと思います。

ところがどっこい私は「セクシュアリティに起因するつらさ」が全然なかった。

前回の記事通り、私は成人してから自分の性的指向を自覚しました。

macguffin-i.hatenablog.com

思春期の頃は自分を異性愛者だと思っていましたし、彼氏も好きな人もいませんでしたが「好きな人がいない」という理由で困ったこともありませんでした。困ったことといえば、精々自分から恋バナができないくらいで……

自認したときも「自分に対する自分の捉え方、社会の中での立ち位置が変わる」という理由で認めるのに慎重になりましたが、自分がそうであるということ自体に嫌悪感はなかったので、「同性が好きな自分」を受け入れること自体に困難はありませんでした。

しかし、これは単にただ幸運だったのだろうと思います。そして私のようにあっさり「同性が好きである」と自認できる人は少ない。

色んな人の話を聴くうちにそれが分かってきたとき、私が「セクシュアルマイノリティであることによって辛かったこと」を語れないせいで、なんだか疎外されているような気持ちにはなりました。つまり、私の感覚はメインストリームではないのだという発見です。これは大きな発見でしたね。ちなみにその場で「辛くなかったなんてお前は本当のセクシュアルマイノリティではない!」と揶揄されたなんてことはありません。

この「『マイノリティであることが辛い』という感覚、経験をベースとした連帯」は、私のような暢気な(?)人間を排除するために作られているのではなく、自分自身を生きていくのに必要な「他人を鏡として各々が自らを語り直し、それによるレスポンスを受けることで自分を見つめ直す」という場を提供するために存在しているのだと思います。それは多くの異性愛者(あるいはマジョリティ)の人々が、日常で無意識にやっていることです。恋バナしかり。私たちは青春をやり直しているのだ。

  

2. LGBとTQの差異:性別違和と性的指向を同時に語れるか

LGBTとはL:レズビアン、G:ゲイ、B:バイ、T:トランスジェンダーの頭文字を取った語で少なくとも日本では性的少数者を一括りにする語として使われています。(最後にQ:クエスチョニングを足す場合も見かけます)このイベントでもLGBとTQは基本的にまとめて扱われていました。

でも、この括りには限界があると感じたのです。 

LGBは基本的に制服やトイレについては大きく不便を感じない人が多いと思います。更衣室はちょっとあるかもしれないけれど。けれど、TやQの人は、性別違和が強ければ強いほどそのあたりがストレスになるでしょう。

実生活のレベルで、不便・不快に思うラインが違うのです。

 そうなってくると、周りの人が取るべき行動も異なってきます。異性愛者の存在を基準にして作られた組織やシステムを、どの程度変えていくかが変わってきます。そういう意味で、LGBとTQを一括りにして同時に語ることは限界があるなあと思いました。

じゃあもうそれぞれを自分のことを個別に語れという話になるのかもしれませんが、まだ纏まってグループを作って私たちはここに居る現実なのだと声を上げて可視化を進める段階である以上、個々の語りでおっけ~!というふうにはまだなれないでしょう。究極的には、誰もが違う人間であるということがそれだけでOKである状態になればこんなLGBTとかいう括りは必要なくなるわけですが。

 

以上、全体を通しての感想でした。さて、次に紹介するのは、私がこれから考えてゆきたいふたつの疑問です。

「応援」とはなんぞや

 よくアライ*2の人々のことを、「LGBTを応援している人々」と説明されることがあります。今回のトークでもよく耳にしました。時にはセクシュアルマイノリティ本人の口からも、「そういう態度は応援されていると思えて嬉しくなる」という言葉も聴きました。

 応援、ってなんでしょう。

 誰のどのような行動を応援しているのでしょう。

これは本当に分からなかった。私はアライという言葉を聴くのは初めてではなく、曖昧ながらもアライの定義については知っているつもりでした。

でもここがどうしても分からない。分からないという点で、多分現時点での私はアライではない。

地道にゆっくり考えていきたいと思います。

 

カミングアウトなくして「本当の信頼」はあり得ないのか

出たカミングアウト関連の話。カミングアウトをどう捉えるかはケースバイケースすぎて難しいですね。

「カミングアウトはしたい人がすればいい。したくない人に無理やりさせることはできないし、強制するものではない」という考えはカミングアウトに纏わるあれこれの根底にあります。私もそれはそうだと思います。人によって置かれた状況は異なりますし、カミングアウトした結果を引き受けるのは結局本人です。何人たりとも他人の行動を強制することはできないし、他人の行動の責任が取れない以上、自分に出来る行動は自分の行動だけです。

けれどどうしても、「カミングアウトしないのは他人に嘘をついていること(少なくとも本当のことを言っていないこと)である」という論理が散見されるような気がしました。それはセクシュアルマイノリティ本人から明言されることもあれば、その場に居る人手共有された前提であるという雰囲気を感じることもありました。

カミングアウトしなければ本当の信頼は築けないのでしょうか。

自分のことを全て開示しないと、他人と親しい関係は作れないのでしょうか。

これも結局、誰もが違う人間であるという事実が当たり前に膾炙されればカミングアウトなんて大仰な告白は必要ではなくなるわけです。早くそういう日が来ないかなあと思います。できれば21世紀中に。

 

まとめ

さて、私が今回実際に行って得た学びは以上です。セクシュアルマイノリティ本人、会社に属して制度を作っていこうとする人、自分の生き方を四苦八苦しながら貫いている人、興味本位で来てみた人、いろいろな立場の方の話を聴けてとても面白かった1日でした。

当初の目標、「これから企業で働いてどんなことに困るのか」は一応知ることができました。企業でセクシュアルマイノリティについて取り組んでいる人から伺ったのですが、「自分がセクシュアルマイノリティであることを言うにしろ言わないにしろ、それをオープンにしたとしても『自分の上司はそれを差別しないな』と分かれば仕事のパフォーマンスが上昇する」とのことでした。*3私はまだ本格的に働いたことがないので実感を伴って納得は出来ていませんが、論理は理解できます。

さてどうなるか、今後の私に期待!目指せ人生の伏線回収!

*1:性的少数者であることが辛いとして、特にLGBについては、それは「同性が好きだから辛い」のではなく、「『同性が好き』ということは社会に認められていないから辛い」のです。Tあるいはクエスチョニングの人であれば、「男女のどちらかに当てはまらない人間は社会に存在しないとされていることが辛い」のです。それ自体が社会に肯定的に捉えられていないから起きる辛さは、それ自体によって起きる辛さ(例えば多数者-少数者という数の絶対値によって起こりうる、同性愛者が好きな人に告白して「ごめん自分はヘテロだからお前とはそういう関係になれない」と努力によっては変えづらい性質を理由に振られることによる失恋の辛さ)とは別です。つまり、誰が前者の辛さを生み出しているかといえば社会であり、当事者とは社会の構成員全てです。ただここでは「当事者」は「セクシュアルマイノリティである本人」の意味

*2:セクシュアルマイノリティ本人ではないがその存在を肯定的に受け入れ支援する人の総称

*3:その人は「パフォーマンスが上昇する」と仰っていましたが、正確に言うなら「本来その人が発揮できるパフォーマンスの値に戻る」が正しいと思います。会社という組織の雰囲気によってそれまでその人の発揮できるパフォーマンスが抑圧されていたわけですから。